スポーツチャンバラ 田邊哲人会長のインタビュー
会長インタビュー No.102
「初心にもどって(護身道とは)」

スポチャンも、昭和48年(1973年)に「全日本護身道連盟」設立から来年で50年を迎えます。

  そうですね。
その2年前、昭和46年(1971年)に「護身道」を刊行しましたが、今となっては貴重な本となりました。若い指導者の方は、なかなか触れる機会がないと思いますので、今回は「護身道」の冒頭を紹介しようと思います。
ここで書いた「護身道」とは、スポチャンのルーツであり基本です。今一度初心にもどり、理解を深めて指導の際に役立てて下さい。その他のルール等は「スポチャンをやろう!」「スポチャン教本」を参考にして下さい。

こちらにPDFファイルを掲載致します。
指導の際、ご利用下さい。

護身道

田辺 哲人著

入門にあたって

  小太刀護身道は昨今氾濫する刃物事件に対し、短いものを、たくみに使って身体命を守る「真の護身」とやや忘れかけている恩や長幼の礼を「辨(わきま)える徳育」と老若男女、親子、友達が一緒に汗を流し多くの仲間作りが出来る「自由で健康なスポーツ」として発展してゆかねばならない。
  当道は流派などに拘泥せず、この小太刀は護身の道を持って唯一である。当道は「健康なスポーツの団体」である。
  当道に入門したる名誉を尊び、まず自分自身の心を磨く修業である事を充分にわきまえ師、先輩の教えを守り、技を学び、強くなり、そして勝敗を超越した楽しむ道として、そして生涯の健康と良い仲間作りとして参画されたい。

護身という事

  人類が、今にある事は、護身にたけていたからに他ならない。
  鋭い爪を持たず、大きな牙のない、又空を駆ける羽もない人類がそれ等脅威より対向でき、又、制圧出来た事は有効な護身用具をたくみに駆使したからである。
  「護る」基本は、ます自分自身が己を護れる事から始まる。自分を守る事の出来る者が、家族を守り、秩序を護り、そしてその力が平和を守る大きな礎となる。
  それら、その個々の平和と自信の中に人間の繁栄、幸福が生まれるのである。全ての武術は護るために発展しなければならない。ややもすると攻撃的精神、格闘精神を植えつける事があるが、これはつとめて戒めねばならない。
  平常心とは、常に、心穏やかでいられる事をいう。無頼が現れて恐怖におののいたり、無法が行われて驚愕したり、言葉のはしはしで興奮したり、それら一つ一つで心が動揺する事は、平素の修業が不足して己に自信が無いために起因する事が多い。平常心を持てぬ者が正常な判断を出来る道理は少なく、この様な平常心を保てぬ小心者が多く事を誤るものである。
  心は常に穏やかにして和平なるが肝要であり、そしてゆとりある冷静な観点から公正な判断が生まれる。
  昨今の、この刃物により殺傷事件は目に余るものがある。精神異常者や凶悪犯、覚醒剤患者にあの鋭利な出刃包丁や様々なナイフ等が、何の制限なく売り渡され巷に氾濫している現実を憂う前に、それら凶刃の暴力の前に至極無抵抗に正義がおびえる状態をまず憂う事である。
  この世に唯一の尊い生命をあたら凶刃に失う事は誠に残念極まりなく決して本志ではないはず。当今護身術と称すると、か弱き女性が痴漢の手を捻ったり股間を蹴り上げるような事を想像するが、過信に及ぶまい。知らないより知っていた方がよりこした事はないが本当に殺意のある者、又、刃物を持った凶悪犯と優位に対向出来うるものの研究が必要である。
  「武術は生死の際に開ける術なり」という。実践にはルールはない。サバイバル武術として、「生死の境」に本当に自分を助けるものでなくては真の護身とはならぬ。
  この自由な世の中にいつまでも少女、女性が夜道や山や海を一人歩きできないという現実を、いや一人歩きする方がいけないという概念がなくならなければ男女の真の平等はない。
  今、アフリカのジャングルの中でもアラブの戦場下でも生きて、帰ってくれるものと信じてこの護身術を推進している。
  小太刀護身道とは、短いものをたくみに用いて、護身と心身の鍛練を目的とした武道である。習うにも覚えるにも誰でもが何時でも簡単に入れ役立つ事が良いのである。
  大きくて力のある者が常に優位である事は妙な事。非力な婦女子でも少年少女でも物を巧みに使うとなかなか侮れない。
  いざという時に正義を自分で護れるという強い自身は今後の人生の姿勢に必ず役立つであろう。小太刀と称するから先に刃がついていて両手で持つのは妙だとか、片刃であるから棟で打つ事は、とか、刃筋が通っていないなどと昔風の理屈は今様の間尺に合わない、自由に振り回して結構である。鉄扇や十手や、一部小太刀の技を採用した部分があるというだけで、固定観念はいらない小太刀とは〔短いもの〕と広義に、また、今様に解釈して理解していただきたい。木で出来た60cm位の〔木太刀〕なかんずく棒切れで、はいている靴でも使って戦うのだと分り易く理解していただいて結構である。いずれにせよ短いものを無理なく、無駄なくたくみに使って身を護るという武道である。

スポーツとしての護身術

入門のアプローチ

  習うにも、だれでもが、いつでも、簡単に入れることが一番良い。老若男女が、あたかも気軽な気持ちで学べることが大事である。
  武道というととかく、堅苦しく考えるものもいるが、それは道を修業する者。初心者は、初めは楽しく必要性を感じて入る事である。そして、武道の持つ礼儀作法と、スポーツの持つ健康さを合わせて護身術となり、だれでもが簡単に、腕に自信がつくことが一番大事である。
  したがって、防具の自然に近ければより良く、重いものや動きのにぶくなるもの、視界の狭くなるもの等は、出来るだけ避けた方が良い。
  ただし、ケガや痛みは、練習の興味を損ね、妨げとなるから、最小限度は必要とする。特に顔(眼や鼻、耳)の部分を保護出来ればよく、現行の競技で使用している多くの痛みを伴わず、健康的で楽しい今のスポーツ護身道の発展に大きく貢献している。
  従来の短竹刀や袋竹刀でも競技に活用出来るが、それに伴う防具が大仰になる。剣道や銃剣道、短剣道のように打撃ポイントを厳しく限定している武道は、その打撃ポイントのみを堅固にしておけば役に立つが、護身を目的とするこの武術は、目的達成に主眼をおくため、例えば小手、面、胴だけに限定せず、横面(こめかみ)、足(膝頭、くるぶし)、肩や肘とかなり広範囲な護身のための効果を重視する。
  実際に堅い棒がその部位に当たれば、充分な威力があるわけであるから、練習でも当然、実践と鑑みて判定をする。
  したがって、平素そのような留意をして錬磨することが大事である。肘カバーや膝当て、すね当て、果てはかかとまでもカバーすれば、あたかも昔のヨロイ具足にように大仰になり、初心者は防具の負担でまず気おくれがする。それらの防具を省略するために打つ物、すなわち、軽く柔らかいものが理にかない、このように改良されたエアーソフトを使っている。
  面は、特に眼、鼻、口、耳を保護出来れば、これも軽いものが良く、また出来るだけ自然に近い方がよい。
  ただし、剣道、短剣道、小太刀、逮捕術、ボクシング、フェンシングと様々な防具が入り混じり、それぞれの武術と手を合わせることが護身の勉強となり、技術向上に役立つので、極端な不公平がない限り制限しない方が良い。
  着衣が、初心者には汗で汚れても良いもの、スポーツ着、体育着で良いものである。
  剣道の袴は、スソがヒラヒラして、「足打ち」の場合、よけたスソをたたいても、かなり大きな音がするため判定をされることがあり、不利となることがある。ただし、スソさばきが良いと、足の乱れなどが目立たず、華麗に見えるがいかんせん前時代のものである。
  とにかく、だれでもが、いつまでも練習できる安全で安価な用具、着衣が良いのである。例えば、昼休みの1時間、芝生の上でとか、放課後の30分、同僚と、または休みの日に家族と庭で、と楽しく汗を流せることが一番。まず、おっくうがらずに、なじむことであろう。
  初めの目的は、間合、間、スキ、躯さばき、受け等を体得出来る訳で、それから興味を持ち、徐々に本格的に道に入り、人格形成の修養に至るということになるのである。
  初めは新聞紙を丸めて打ち合う、というほどの気楽に考えてやることでも、間合やタイミングは少しずつ分かるものである。

「護心と護身」

  私は武道は、体育向上のスポーツとしてはもとより、その技、なかんずくその心はすべらかく護身のために発達しなければならないというのが持論である。「護身」は「護心」に連なり健康もまた守らなければならないのである。常に争心を忌み和を大切にする心は必ずや周囲に伝導し、その和は輪となり、良い仲間が生まれるものだと信じている「ケンカ○○」とか「最強の格闘技」とか闘争心を増長、挑発させる武術は婦女子はもとより青少年には不必要であると思っている。また「けんかに強い」とか「若い頃」にこうだったとかの武勇伝も好きではない。
何故なら武勇伝を自慢話とする教育はかなり危険であるからだ。
このてのものは、えてしてエスカレートするものである。まして自制心の少ない青少年には尚更である。「やることも、やられることもいけない」がこの道を学ぶ者の基本原則である。
又、女は強くなるべきだと思っている。
男女平等とは口では言っていても根本的な体力で負けるということは何事にも自信のなさにつながることとなる。
女子供は弱いもの・・・とは昔の話でありたい。
今から女性は実力でも平等になるべきである。いずれにしても最低自分のこと位自分で護れるように精進努力することがまず肝要である。
  ここに護身道「師範教育」の一筋に武勇伝のことがある。

〈 武勇伝のこと 〉

  人それぞれ齢を数えるうちに一ツ二ツの武勇伝あるやに思うが道の中にいて恥をしのぶならいざ知らず自慢の武勇伝などあるべきがない。およそ武勇伝とは、争時、ケンカの類いのうち生まれる事が多いもの、そもそもの渦中それ等仲間に身をおくが、まずはまちがいの第一歩。何ごとの指導者たるもの争禍のたぐいを未然に消し常々周囲に福を有し天下泰平であるが、指導資質の一等と心せよ。事を起るべくして起してそれを消したる勇功武勇などと軽率に言うは心得違いという事である。
  武勇を誇る民族は必ず他の武勇にて亡びるものである。


次回の「インタビュー」もお楽しみに!!
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