スポーツチャンバラ 田邊哲人会長のインタビュー
インタビュー記事No.3 (スポチャンの歴史)
「国のスポーツ拠点推進事業」について

田邊哲人会長

国のスポーツ拠点推進事業として「第32回全国少年少女スポチャン大会」が決定しました。


 高校野球における"聖地"が甲子園であるように、100のいろいろなスポーツで"聖地"を定め、青少年に夢と希望を持つ国造りに参加させるという目的で、スポーツ拠点推進事業が文部科学省・総務省で決定しました。そして青少年におけるスポチャンの"聖地"は由比町となりました。

 まず日本を北海道・東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州/沖縄の8ブロックに分けて、それぞれ3名1チームの代表が団体戦(先鋒:小太刀、中堅:長剣、大将:二刀または槍)となります。団体戦は地域選抜チーム対抗となりますが、個人戦はフリー参加(学年別予定)です。希望者はどなたでも参加できます。
 詳細は参加者募集要項で公募しますので、スポチャン本部のホームページをご覧下さい。

 またこの事業には10年間、国から財政支援があります。その後も由比町にスポチャンが聖地として定着することが目的です。青少年の目標となるスポチャンが永遠に続き、そして発展していくことが望まれるわけです。




多くのスポーツの中から選ばれることは、大変名誉なことですね。


選考の決定に当たっては、3点が必要でした。1つは国内唯一の団体であること。似たような競技大会が2つも3つもあってはならないのです。2つ目はそのスポーツの支部が全国にあり活動していること。そして3つ目は、全国規模の少年大会が開催されていることです。決定した種目を見ると、オリンピック種目であるモノやマイナースポーツも入っています。そう言った種目の一つにスポチャンが選定されました。

 昨年と一昨年で既に55の大会が選定されています。
昨年、選定事業として開催された大会には総務大臣から「国民スポーツ賞」が授与されました。




スポチャンは由比町で認定を受けました。どうして由比町なのですか?


田邊会長の父 弥太郎氏
  スポチャンの発祥にかかわる事でしょうかね。
  私の家族は、戦前ミクロネシアのパラオに8年間住んでいまして、私もそこで生まれました。ご存じかと思いますが、戦前のパラオは日本の領土でした。家族が住んでいたパラオのアンガウルという所は、リン鉱石の豊富なところで国策事業があり、父はそこで報道班兼、書記でした。
世界大戦が始まり、そもそも永住しようと思っていた家族も昭和19年6月の最終船で、取るものも取りあえず日本へ引き揚げて来たそうです。私が2歳の時ですから憶えていませんが。

  最初は東京へ引き揚げて来ましたが東京も空襲で危なくなり、親戚を頼り静岡県の由比へ移りました。その後父が病気になり、私は神奈川県二宮町の母の実家に預けられました。そして小学校は由比町の北田小学校に入学し、高校2年生まで由比で過ごしました。

  由比町長は、私が子供の頃、棒切れでちゃんばらこっごをしながら神社の境内を駆け回っていた時の幼なじみの後輩。先日由比町へ出向きましたが、町長を始め、由比町の役員の方々は温かく迎えてくれ、皆さん大変協力的です。由比と言えば桜エビとミカンが有名ですが、これからはスポチャンも入るでしょう。由比から世界に発信するスポチャンの"聖地"として位置付けられるはずですから。




由比町は先生のふるさとなのですね。由比町の頃の先生は、どんなお子さんだったのですか?


田邊会長の母 美津子氏  ひと言で言って"落ちこぼれ"。 多分、枠にはまらなかったんだと思います。
母は近所に頭を下げっぱなしでした。時々逆切れして「うちの哲坊は悪いから、苛められると言うのならもう遊びに来ないでくれ!」と逆切れしていましたよ。
二宮にいた頃もよそ者で、近所のガキ集団から呼び出されれば、1人で腰に刀に見立てた棒切れを差して出かけていたそうです。自分は憶えていないけどね。
 あとは、活発と言えば聞こえが良いが、良く転んでいたようでした。大体足元や手元を見ないのです。何かモノを取るときでも足元を見ないモノだから、イスがあろうが構わず手を伸ばすでしょ。だから取る前に転ぶ。いつも足や顔に赤チンを付けていた。自分でも情けなかったことを思い出します。


由比中学3生  戦後間もない頃の日本は、日本中が喰うことに精一杯で今のようなゲームやパソコンなどありませんから、子供達は自分たちで遊びを工夫しました。子供は子供で自分たちの居場所を作るのです。僕らの頃はのそういう居場所は神社の境内や野山でした。チャンバラごっこやかくれんぼ、草野球などの仲間が集まり、その仲間からガキ大将がうまれ、そのガキ大将も先輩から徐々に後輩へ受け継がれて行くのです。その中で、上下左右の人間関係が構築され、学校では"横"の、ガキ大将や先輩後輩の仲間達とは"縦"の人間関係の中で、自分達の居場所や居心地を憶えていくのです。

 現代の子供達にはそういった"縦、横、丸"の子供の居場所が少ないようです。学校や仲間、家庭の間に、もう一つの"丸"があった方が良いでしょう。スポーツと言うモノは、老若男女を含めた"丸"の世界だと思います。その一助としてスポチャンが地域のコミュニティとなり、役に立てば良いと思います。




先生、武道はいつ頃から初められたのですか?

横浜の学校時
 高校2年の時に横浜に転校しました。横浜にはボクシングや武道の道場が様々ありました。当時の少年の夢は、空手道場へ行ったり、ボクシングジムへ行ったりして強くなりたかったものです。"精神の鍛錬"とか"正しい道だ"とか言うよりも、ただひたすら強くなりたかった。そしてそういう道場へ通いました。力も有り余っていましたし。
当時はバイクも流行っていて、バイクで左足を骨折する大怪我をしました。この怪我からは腕力や体力には限界があることに気付きました。

剣道修業時代の田邊会長  いくつかの町道場の中で、辿り着いた町道場は武道専門の道場で、剣道が終わったら居合道、杖道(じょうどう)、槍道(そうどう)といった具合で、すっかり虜になりました。やはり元より"サムライ"が好きだったのですね。この道場のしきたり、作法、例えば寒い冬の雑巾掛けなども普段とは違い、どういう訳かこれが全て素直に聞けました。累々と流れ伝わってきた私の血の中に流れている縁(えにし)、つまり日本人のアイデンティティー、言い換えれば質素を旨とした葉隠れの武士道精神に触れたのかもしれません。真冬でも素足で道着の下には下着も着けず、無理、無駄、言葉の必要の無い所作、立ち居、振る舞い、また日本人の象徴とも言うべき日本刀の作法も、またその"美"も少年の私を魅了しました。そしていつしか自分の乱暴狼藉な心根は姿を消し、この道にのめり込んでいきました。

 その後は学校や仕事の関係もあり、いくつかの道場を変えながらも、この道だけは飽きることなく通い続けました。この道は、入れば入るほど奥深かったのです。



有り難うございました!
先生の大変元気な子供時代のお話し、楽しいですね。次回のインタビューに続きます。お楽しみに!

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